【50代 女性】ジェットコースターのような感情(死にゆく自分の親に対して)
人間の尊厳もわかっているし、
今までの人生。いつもそばに居た大切な存在なことも間違いないし、
もう二度と会えない哀しさも想像出来ます。
けどもう、いつ終わるのかわからない、この感情の起伏にも疲れが隠せない。
そんな時に聞こえてきた歌。
悲しいけれど終わりにしよう、きりがないから…『ラブイズオーバー』という歌が耳に飛び込んできたの。
ぴったりな歌詞の歌だけれど、こんなきれいな表現じゃ済まないものですよね。
非常識の世界で生きたことがある人間でしか理解できないものだと思いますが、
恩と怨念…。この言葉は、悲しみだけを残してきれいにこの世を去っていった親に向けては、想像もできない。
親に向かって何て事を言うんだと袋叩きに合いそうな表現ですが、
愛情と憎しみが表裏一体であるように、簡単には収まらない感情があります。
介護の話から少し逸れますが、自分の母親に対する想い。幼少の頃からの記憶を少し吐き出させてもらいます。
私の場合は、幼い頃から、酒乱の父親から酷い目に合う母親の姿を見ながら布団の中に隠れる。
夜中に起きたら、両親はいなくて怖くて泣き寝入りをする。
質屋通いやサラ金地獄で夜逃げや、引越し、4〜5回の転校。離婚。親戚の家での生活。
荒れた中学で、女子リンチの的。
住み込みで働いてたいた母親に、生活のためだけに必死だった、決して普通の親とは言えない母親に、
高校に行く話など、いやお金の事もももちろん、自分には皆無だった。
アルバイトを転々とし、たくさん働いた。初めてもらったバイト代で、母親にお小遣いをあげることがやっとできて嬉しかった。
こうして、16才から社会で働き始めた私は、18才になるのを待ちわびて、水商売に入った。
お給料袋が横に立つくらいに、そのお店のNO1になるくらいに頑張れ。と言われて、どんなおじさんからの注文でも応えられるくらいに、大箱のお店でデュエットを歌った。指名は一位だった。
ちょうど、バブルだった時代いい思いもたくさんした。
その流れに乗り、20代半ばで銀座の売上げ制クラブのNO1となり、もちろん母親も一緒に暮らし、海外旅行にもたくさん連れていった。
そんな中でも、お金の管理ができない母親は、人に騙されたり、それを埋めるために借金をし、借金の高利回り利息を払い続け、娘の大切にしまってある賞金袋の束をそっくりと持って姿を消したり、お店の社長からご褒美にいただいた高価な着物を質屋に…と。
それはそれは壮絶で、殺意がよく実行されなかったと関心するほどの憎しみを抱いた。
でも、母親本人は、その時は悪びれるけれど、そこまで悪い事をしたとは思っていないのだと思う。何故かといえば娘のものは自分のものだったのだろう。
そうして根は明るくて面白い母は、その病気発症以外は、いつも笑顔で優しく、話しを聞いてくれて、一緒に笑ってくれて、何でも味方で、とにかく愛情深い人だったのです。
そんな母親も90才を越えてついに最期に。
日に日にやせ細り、トイレとベッドの往復は歩行器で、ただそれだけ。3食の食事を運ぶのと、週に一度抱えてお風呂に連れて行き、たっぷりお湯の入った浴槽に入れてあげる。とてもそれ以上に話し相手になってあげることなどできない。もう2回も覚悟したのに、いつまで生きるのだろう。これ以上に痩せてミイラみたいな顔になっていくのかな…。それを見なくてはいけないのかな…。
世の中には、認知症、うつ病、罵声、ウンチを壁に塗りたくる、人の数だけの大変な形があるのだと思います。
さあ、どうやって乗り越えようか…